近代の学校制度

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「公教育」という用語は、「Public Education」の訳語で、本来的には、公共の教育、公開の教育という意味を含んでいます。

すなわち「公教育」とは、「公共の資金で維持され、すべての子どもに開放された教育組織」のことだといえます。そうした性格をもつ学校教育システムの必要性が生まれ、主張されるようになったのが近代であり、「近代公教育」と一般にいわれるのです。

しかし後にみるように、実際に、19世紀後半以降成立してきた近代公教育制度は、国家の主導権のもとでつくられ、すべての国民がむしろ義務として、国民として最低限必要な実用的学力、社会秩序への適応のための道徳教育を受ける公共の学校教育制度という性格を強くもったものとして成立してきます。

とりわけ、 日本の戦前の公教育制度はその傾向が強く、おまけに「公教育」という用語それ自体が、「公」の「教育」と理解されていました。その場合「公」とは「おおやけ、朝廷、国家、お上」などという意味をもち、 したがって「公教育」=国家の施す教育、お上の教育と理解される傾向が現在でも根強くあります。こうした「公教育」観を、「みんなでつくり、みんなに開かれた権利保障としての公共の学校教育」という本来的な「公教育」観に転換していく必要がある、といえるのではないでしょうか。

ところで、それではそのような「公教育」がなぜ近代になって、必要となってきたのでしょうか。

農耕革命が学校の登場を促したように、18世紀後半イギリスに始まった産業革命が、すべての子どもが学校に通う社会的な必要性と可能性を生み出しました。科学の発展に裏づけられた生産技術の変革と、それに伴う生産組織の変革によって、生産力の飛躍的な発展をもたらした産業革命は、人間形成の面でも非常に大きな影響を及ぼしました。

機械力の導入は、個々の労働を単位的要素に分解してしまい、以前の経験的熟達を要した手の労働のもっていた全体性や教育力を失わせることになりました。また安価な労働力としての女性や子どもの賃労働者化は、1日来の家族を崩壊・解体させ、基本的な生活習慣の形成すら困難になるという事態をもたらしました。工業化の進展は、地域共同体の解体をいっそう推し進め、共同体のもっていた人間形成力を失わせていくことになりました。産業革命が進行するとともに、1日来の民衆の人間形成の仕組みは弱体化し、道徳的額廃や犯罪の増加、結核の大流行や長時間労働による健康破壊など、さまざまな社会問題と教育の課題が発生しました。このような事態のもとで、すべての子どもを生活や労働の場から切り離して学校で教育することが必要になってきたのです。

一方、産業革命は、すべての子どもを学校で教育していくことを可能にする条件も生み出しました。産業革命は科学に裏づけられた生産技術の変革を基底としています。産業革命以降の産業社会において生きていくために必要な知識。技術は、それまでのカンやコツといった属身的知識・技術から科学的な知識・技術に転換していったのです。

科学とは、普遍性をもった合理的な体系であり、その理論どおりにやれば誰にでも検証可能な体系です。科学的な知識・技術は、経験することを通して「体得」することが必要な知識・技術とは異なって、実際に経験してみなくても理論を学ぶことによって身につけていくことのできる知識・技術です。生きていくために必要な知識・技術が、経験から分離して分かち伝えることができるようになったのです。すなわち文字で、学校で身につけることが可能な知識・技術なのです。そのことによって文化(知識・技術)をすべての人が共有し、すべての人が結びついていく可能性が生み出されたといえるのです。

さらに産業革命の進行によって生み出された巨大な生産力は、すべての子どもを一定期間、生産労働から解放して学校で教育を受けることと、そのための学校を社会的費用でつくることを可能にしました。

すべての子どもを学校で教育しようとする人間形成のシステムー近代公教育一の社会的必要性と可能性を準備したのは、産業革命の進行でした。しかし他方で13世紀末イタリアに始まリヨーロッパ各地に広がったルネサンス運動以降の近代人権思想の深化、発展の流れの中から、すべての人間が人権の主体として自由と平等の権利を有し、それらの権利を現実化するための教育を受ける権利を保障するために、公費による平等の学校教育が用意されなければならないという思想が生まれました。そのような思想の深化、発展が、権利保障としての近代公教育制度の成立を促していくことになったのです。

そうした思想を準備し、形づくっていったのは、前述したコメニウスやルソー、そしてJ.H.ペスタロッチ(1746-1827)などでした。

「大人」であることに価値をおき、子ども時代を大人への準備段階とみるそれまでの子ども観を転換し、子ども時代が人間の成長にとって独自的な価値をもつことを提起したルソーの思想は、必ずしも公教育論へと結びつくものではありませんでしたが、子どもが固有の人権と権利をもった存在であり、子どもの自由と自発性を尊重し、発達段階に即してその成長・発達を支え、保障することこそが教育の役割だとする考え方は、後の教育思想の展開に大きな影響を及ぼすことになりました。

スイスの民衆教育の父ともいわれるペスタロッチは、ルソーの影響を強く受け、産業革命の進行が生み出す民衆の悲惨な生活状態を前にして、社会改革と民衆の人間的救済を決意し、生涯を貧児、孤児の教育に捧げました。その教育実践に基づいた彼の主張は、人間の知・徳・体の諸能力の調和的発展の基本は、家庭および万人就学の小学校での基礎陶冶にあり、その方法は、直観。自発活動。作業と学習の結合に基づくとするものでした。

こうした人権と教育の思想の流れを受け継いだ権利保障としての近代公教育制度の原型のひとつを、フランス市民革命の中でコンドルセ(1743-94)によって構想された「公教育の一般的組織に関する報告および法案」にみることができます。

知的に啓蒙された国民によって、フランス革命がめざす個人が自由で平等に生きられる国家社会が実現できるという立場から、教育を受ける権利は他の人間的権利を現実のものにするもっとも基礎的な権利であって、そのことを保障するために、政府は公教育制度を設置する責務を負うとしたのです。公教育の教育内容は、親の教育権を侵害しないように、個人の内面的な価値形成に関わる宗教教育などを排除して知育に限定すること、一切の政治的権威から独立すること、教育機会を平等に保障するために男女共学、単線型、無償制にすること、 などを公教育制度の原則として提案しました。この制度構想は、革命政府の崩壊によって実現されませんでしたが、 ここに示された公教育制度の原理・原則は、その後継承。発展していくことになりました。

こうして産業革命や市民革命を経て成立してきた近代社会にふさわしい教育システムとして、19世紀後半以降、ナショナリズムの高揚を背景としながら、まずは欧米の国々に国家の手によって近代公教育制度が整備されました。しかし、実際に成立してきた近代公教育制度としての初等義務教育制度は、部分的には子どもの権利保障という側面を含んでいましたが、ナショナリズムの高揚と資本主義の展開過程と結びついて、従順で良質な労働力を大量に養成する教化機関としての性格を濃厚にもったものとして機能していくことになりました。

そこで教えられる教育内容は、読み書き算の3R's(Reading、Writing、Arithmetic)と労働力として必要な一定の科学的知識・技術に加えて、国家主義的な道徳でした。そこで採用された教育形態は、経済性・効率性を優先して、少数の教師で多数の子どもを教えることのできる一斉教授の方法でした(上図参照)。そこでは子どもの個性は無視され、教師中心の詰め込み的なものにならざるをえなかったのです。

こうした公教育のあり方を批判し、近代教育思想の系譜を引く立場から、一人ひとりの子どもの人格や個性を最大限伸長させる教育を創造しようという運動が、19世紀末から20世紀初頭(1920-30年代)にかけて世界的な規模で展開されていくことになりました。この新教育運動の中で、 さまざまな思想が生まれ、実践が試みられましたが、そこに共通にみられる特徴として、子どもの自由・自発性の尊重や興味。経験の重視、自然の中での教育、生活と教育の結合や労作教育(労働と教育の結合)、個別学習の重視などをあげることができます。この国際的な新教育運動は日本にも大きな影響を与えることになりました(→第3章2節、第7章3節)。なかでも、 アメリカ進歩主義教育の担い手だったJ.デューイの思想は、国際的な新教育運動にも、さらには戦後日本の教育改革にも影響を与えました。

大学もまた、近代国民国家が形成され、資本主義が発展し、近代科学が勃興するとともに、国家的機関としての性格を強め、官僚・科学者。法曹・教師・産業従事者などの養成にあたる一方、科学研究の中心をなすものに変化していくことになりました。

一方、中等教育の面では、2つのタイプの中等教育のうち、初等教育に続く第2段教育としての中等教育機関のカリキュラムの近代化が促進されることになりました。アメリカでは、南北戦争以後、公立のハイスクールが急速に普及し、19世紀末には伝統的な西欧型の初等。中等一貫の教養学校を凌駕し、1910年以後、同一の中等学校に普通課程と職業課程を含み込んで地域の生徒を無選別で入学させる総合制中等学校(comprehensive school)が設けられ、初等―中等―高等と接続する単線型学校体系が成立したのです。

他方、英、独、仏の場合は伝統的教養学校が初等・中等一貫体制を保持し続けたため、大学に接続する教養学校と、初等学校からの進学者を受け入れた大学に接続しない実学系学校との複線型学校体系が形づくられました。

しかし、 これらヨーロッパ諸国でも20世紀に入って統一学校運動が起こり、 しだいに初等教育が共通基礎教育として編成されるようになり、第2次世界大戦後はほとんどの先進国において前期中等教育までの義務化が実現しました。また伝統的中等教育と他の系統との間に、制度上の差別を残していた国でも、その後、中等教育制度の機会均等が課題とされるようになり、総合制中等学校が制度化されるようになりました。



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