日本の近代化と学校教育

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商品経済の進展や、それに伴う幕府や藩の財政的危機の深刻化、さらには欧米列強諸国による外圧などを背景にして、18世紀末以降、さまざまな教育機関が普及、発展、整備され始めました。幕府では、それまで林家に一任していた湯島聖堂の教育を改革し、幕政の立て直しをめざした人材養成機関として位置づけ直しました。

幕府の公的な学校として1797(寛政9)年「昌平坂学問所」と改称して、幕臣の就学すべき学校として再編したのです。

各藩でも、藩政改革を進めるための人材を養成する目的で、多くの藩で藩校が開設され、19世紀に入って教育方法の合理化も進み、学習の進度に応ずる教育課程の編成や等級によるクラス分け、試験による進級の仕組みもしだいに整備されていきました。教育内容面でも、儒学(朱子学)を中心とすることに変わりはありませんでしたが、国学や洋学を導入する藩校が幕末に近づくにしたがって増加し、実学的な傾向を強めていきました。また、幕末から維新期に入ると、藩校を一般民衆にも開放するところが多くなり、人材を家臣だけでなく、広く民衆にも求めるようになり始めました。

一方、民衆自らも、商品経済の発展の中で、自分たちの生活や生産を向上させていくために、読み、書き、算の基礎学力を子どもたちに身につけさせる必要性を自覚化し始め、自分たちの手で、寺子屋を開設していきました。とりわけ18世紀後半以降、幕末維新期にかけて、その数は急増しています。寺子屋における教育は、近代学校が一斉教授の教育法であったのに対して、個別指導でした。その教材(手習い本)として地域や職業に即して全国で数千種にも上る「往来物」がつくられました。幕末維新期に存在した寺子屋数は4万とも5万とも推測され、国家による近代公教育が始まる前の民衆の識字率の高さは、他の国に類をみないほどのものでした。こうした民衆の教育への熱意が、明治に入って始まる小学校を創設する力になっていくのです。

私塾もまたこの時期に急増しました。藩校がややもすれば官許の学問の枠を超えられないのに対して、 自由な私塾が、藩校に先んじて、新しい時代状況に対応しうる新しい学問を提供する場となった

のです。さらには多くの私塾が民衆にも開かれていて、向上し始めていた民衆の学習意欲に応える場ともなったのです。幕末期の有名な私塾として、漢学塾としては広瀬淡窓の成宜園、吉田松陰の松下村塾、洋学塾としては緒方洪庵の適塾福沢諭吉の慶應義塾などをあげることができます。これらの有名な私塾には遠方からも門人が集まり、またいくつもの私塾を渡り歩き遊学する門人も多く、私塾は幕末期の混乱する情勢の情報交換の場ともなりました。

以上のような幕末維新期のさまざまな教育機関の普及。発展を基礎として、 日本の近代公教育制度は発足していくことになります。

日本の近代公教育制度は、1872(明治5)年公布の学制によって発足しました。学制は、フランスの制度に倣って学区制を採用しました。全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に区分し、 それぞれの学区に大学校、中学校、小学校を各1校設立すると規定したのです。したがって、全国に8大学校、256中学校、5万3760小学校を創設しようとする壮大な計画でした。当時の人口は3000万人強でしたから、人口600人に1小学校を設置しようとしたのです。実際につくられたのは、計画の約半分の2万5000校あまりの小学校でしたが、 この数は現在の小学校数を上回るものであり、そこには当時の地域の民衆の教育にかける熱意をみることができます。

学制公布の前日に布告された学制序文(学事奨励に関する被仰出書)は、民衆に向けて、学校で学ぶことの必要性、重要性を説くことを目的に出された文書で、近代公教育制度発足当初の政府の教育理念

がよく示されています。旧来の封建的な教育、学問観を批判・否定し、 これからの教育は、四民平等で、個人の立身出世、殖産興業を目的として行われなければならないとしたのです。そこには、欧米

列強諸国をモデルに、国民教育を普及させ、広く人材を抽出、養成することによって産業革命を推し進め、殖産興業・富国強兵の近代国家の建設を急ごうとした当時の政府の意図があったといえます。

教育を通して欧米文明を摂取し、個人の力量、国民の力量が高まれば、必然的に国家の力量も高まる―「一身独立して一国独立する」(福沢諭吉『学問のすゝめ』全17編、1872-76)一という考え方に立っていたのです。

このような日本における近代公教育制度のつくられ方は、前章でみた欧米諸国での近代公教育制度の成立のあり方と異なっています。

欧米諸国では、産業革命が進行し、共同体の人間形成システムが崩れ、社会的な必要性からそれに代わるものとして近代公教育制度が成立していきました。それに対して、日本の場合には、産業革命以

前の段階で、国家の主導のもとに産業革命を推じ進める人材を選別し、養成するために近代公教育制度を創設したのです。ごく普通の民衆は、基本的には共同体の人間形成システムの中で「一人前」の人間として形成されていたのであり、当時の民衆には寺子屋的なもので十分だったのです。

すなわち日本の近代公教育制度は、国家的必要性から国家の学校として村社会にもち込まれるという形で成立したといえます。したがって、発足してしばらくの間は、「国民」として教育しようとする国家の学校教育システムと村社会の人間形成システムとの間にしばしば衝突がおこることになりました。就学率は30%程度にすぎず、あいつぐ新政反対一揆の中で、学校が、警察や役場と並んで打ち壊しの対象となる事態もおこりました。

他方、欧米の近代人権思想、啓蒙思想の流入は、青年世代をおもな担い手とした自由民権運動の高揚をもたらすことになりました。

自由民権運動は、国会開設、地租改正、不平等条約の是正などを求める政治運動であったとともに、 自らを、そして子どもを、次代の地域を担う、そして国家を担う政治主体、権利主体として形成していこうとする教育・学習運動としての側面を強くもった運動でもありました。その運動の中で青年層の旺盛な学習意欲に支えられて多種多様な「私」立の中学校が生み出されました。それは、「公」教育を、「お上」「国家」の教育ととらえるのではなく、国家の干渉を排した「私」の共同化としての「共立」の教育として創設していく可能性をもった運動でもあったのです。

民衆の反発と他方での自由民権運動の高揚という事態を前にして、政府内部に路線の対立が生まれてくることになりました。学制以来の欧米文明の摂取を主要課題とした教育政策を知育偏重と批判し、徳育重視への転換を主張する考えと、学制以来の教育政策の継続を主張する考えの対立でした。

前者の考えは、1879(明治12)年夏に元田永学の起草になる教学聖旨を政府指導層に内示するという形で示されました。しかし同年、田中不二麻呂文部大輔を中心として作成。公布された教育令は、後者の立場に立つもので、 アメリカの教育行政を参考にして、学制の中央集権的な画一的。強権的な実施方法を改め、地域に教育実施の権限を大幅に委ね、民衆の生活現実に立脚して公教育の普及を図ろうとしたのです。このような教育令の性格は、自由民権運動の中で強く主張された教育の自治。自由の要求に沿うもので、自由民権運動のいっそうの高揚を促すことになりました。

反政府的色彩を強めていった自由民権運動の高揚に危機感を抱いた政府は、学制以来の知育を重視した開明的な教育政策の転換を図り始めます。啓蒙的・民権的な書籍を教科書として使用することを禁止する措置や民権派教師の締出しを狙った教員統制策が開始され、1880年暮れに教育令が全面改正されました。この第2次教育令は、先の教学聖旨の主張を大幅に取り入れ、修身科が筆頭科目に据えられて、儒教を中核とした徳育重視の教育へと転換が図られることになったのです。

また中学校への規制も開始され、1881年に中学校教則大綱、84年に中学校通則が制定され、「忠孝昇倫ノ道ヲ本トシ」た教育(忠孝をはじめとした道徳を基本に据えた教育)を行うことが求められるようになりました。設置基準が高められ、私立や連合町村立の中学校が淘汰されていきました。こうして、公教育を「私」の共同化としての「共立」の教育として創設していく可能性は失われていくことになったのです。

1885年、内閣制度が発足し、その初代文部大臣となった森有礼のもとで、来るべき立憲体制の成立に向けて教育制度の一連の改革が行われ、86年にいわゆる諸学校令(帝国大学令、中学校令、小学校令、師範学校令)が制定されました。

この制度改革によってつくられた学校体系は、戦前の学校制度の基本体系となりました。帝国大学令第1条で帝国大学の目的を「国家ノ須要二応ズル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ孜究スルヲ以テロ的トス」と規定したように国家的色彩の強いものでした。 しかし他方で啓蒙主義者でもあった森は、第2次教育令以降の修身科を中核とした儒教主義的な徳育重視の教育を批判し、欧米市民国家の国民性をモデルとして、強い自我をもった、 自発的。意欲的に国家を支えようとする国民の形成を行う教育制度の構築をめざしました。しかし89年の森の暗殺によって、その試みは頓挫することになりました。

このように、学制発布によってスタートを切った日本の公教育の教育理念は、個人の自立を図ることによって国家の独立・富強を達成するのか、国家に従属する個人を形成するのかをめぐって揺れ動いたのですが、その動揺に終止符を打ったのが、1890(明治23)年に発布された教育ニ関スル勅語(略して教育勅語)と小学校令の改正(第2次小学校令)でした。

井上毅と元田永学によって起草された教育勅語は、全文315字の短いものでしたが、以後、戦前日本の教育の根本理念となりました。そこには教育を通して形成すべき「臣民」像が示され、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」する人間、すなわち天皇。国家にすべてを捧げる人間となることが求められたのです。

勅語発布に先立って公布された第2次小学校令の第1条で、小学校教育の目的が「道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活二必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クル」ことと規定され、1941(昭和16)年の国民

学校令で改正されるまで、 この規定が戦前の小学校教育の目的となりました。ここにいう「国民教育」とは、一国の特性に関する教育のこととされ、「道徳教育」と並んでその内実が教育勅語で明示されたのです。1891年の小学校教則大綱では、教育上もっとも注意を払うべきこととして、「徳性ノ涵養」をあげ、全教科目で「道徳教育」「国民教育」に留意して教える必要性が指摘されました。教育勅語の精神を教えることは、修身科のみならず、すべての教科目の目的とされたのです。

教育勅語の絶対不可侵性を国民に印象づける出来事が、勅語発布の翌年におこります。いわゆる内村鑑三不敬事件です。第一高等中学校(のちの第一高等学校)の嘱託教員であった内村鑑三が、勅語

奉読式に際して、キリスト者としての良心から天皇の寝署(天皇直筆の署名)のある勅語に「奉拝」(深々とした拝礼)しなかったことが問題化し、内村は自ら職を辞しました。

1890年代に入って日本の産業革命がしだいに進行し始めると、資本主義の発展と軍備拡張を進める政府にとって、小学校に続く教育の整備・拡充が重要な課題となってきました。94(明治27)年、井上毅文相は、高等学校令を制定し、従来中学校令で規定されていた高等中学校を、高等学校として分離しました。また、初等レベルの簡易な実業教育の制度化に着手し、実業教育の振興に力を注ぎ始めました。そして99年に中学校令が改正され、高等女学校令、実業学校令が制定され、中等教育の三種別化が確定し、初等教育の延長としての高等小学校を含めて、義務であった尋常小学校を終えて以降の学校体系は複線化し、いわゆるフォーク型学校体系が完成していくことになりました。

1903(明治36)年、教科書は国定化され、唯一絶対の教材となりました。教師は、教科書に書かれていることを、 もらさず子どもたちに教え込むことを通して、子どもたちを「臣民」にしていく義務を天皇。国家に対して負うことになったのです。子どもたちもまた、教科書に書かれていることを覚え込むことによって、「臣民」となる義務を天皇。国家に対して負うことになったのです。

学問と「教育」は分離され、男子のみに開かれた中学校、高等学校、帝国大学においてのみ、「国家ノ須要二応ズル」という枠ははめられていたものの、一定の学問の自由が容認され、それ以外の「教育」機関は学問の自由のない教化的色彩の濃厚なものとして整備・完成されていきました。こうして戦前日本の公教育は、「お上」「国家」の教育となり、そこでは「私」は抑圧され、「滅私奉公」が求められ、教育を受けるということが、兵役、納税と並んで国民の国家に対する義務となったのです。

日清。日露戦争を経て日本の植民地となった台湾、朝鮮にも、それぞれ台湾公学校令(1898年、のち1919年台湾教育令)、朝鮮教育令(1911年)が公布されました。教育勅語の精神に則った教育を行うとされ、母国語を奪い、 日本語の教育を強制しました。そして台湾や朝鮮の人びとを「皇民化」していく政策が展開されていくことになりました。



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