近代以前の日本の学校

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645年以降、大化の改新において、律令に基づく国家の統治機構の整備が始められました。701年には、 日本史上最初の本格的律令法典である大宝律令が制定・施行され、 これにより日本の律令制が確立することとなりました。律令制とは、律と令を中心として、法治的に国家を支配しようとする統治形態のことです。したがって、その支配をスムーズに行うためには、律や令などに精通した官僚を必要としました。
大宝律令の中に「学令」という法律があり、そこで大学寮。国学という、官僚養成機関としての学校制度がはじめて定められました。
中央に設置されたのが大学寮であり、おもに貴族の子弟が入学しました。また、国学は、各国の国府に1校設けることが義務づけられ、郡司の子弟たちが入学しました。
しかし平安時代に入ると、 しだいに大学寮が衰退し、有力貴族によって設立された大学寮付属の寄宿舎兼学習室が発達し、独立の私立学校と理解されるようになりました。これが大学別曹です。律令制度の崩壊とともに国学も衰退し、11世紀に入る頃までにはほぼ消滅しました。
上記のような官僚養成の国家的な学校制度とは異なり、民衆向けの学校を創設したのが空海です。日本の真言宗の開祖である空海は、民衆教育を目的として、828年頃、京都に綜芸種智院を設けました。
綜芸とは、各種の学芸という意味で、大学寮や国学が儒教を学ぶことが中心であったのに対して、身分に関わりなくより広い立場で儒教・仏教・道教の講義がなされました。
前述したように、 ヨーロッパにおいて、中世の学校は宗教の強い影響下に置かれましたが、事情は日本でも同じでした。
鎌倉時代の中頃、北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(現、横浜市金沢区)の邸宅内に造った武家の文庫が、金沢文庫です。私設図書館的な役割を果たしたと考えられています。その蔵書量は約1万3000冊に上りました。金沢北条氏は、鎌倉幕府滅亡と運命をともにしましたが、以後、文庫は隣接する称名寺によって管理され今日にいたっています。
鎌倉時代末期頃、北条氏は南宋の五山十刹制度に倣って五山制度を導入し、鎌倉の禅寺に鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を選定しました。室町時代初期には、京都の禅寺のうち、南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺が京都五山として選定されました。これら五山の禅宗寺院では、漢文学がさかんに行われ、それらを五山文学と総称します。これらの寺院は、 この時期の学問の中心となっていました。また、五山僧は中国文化に通じていたので、幕府の外交文書を起草したり、外交顧問的役割も果たし、官僚の役割も担ったのです。
室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府とされた足利学校は、下野国足利荘五箇郷村(現栃木県足利市)にあり、北は奥羽、南は琉球にいたる全国から遍歴学生が来訪しました。建物には3つの門があり、その中央の門が「学校門」とよばれ、「学校」と書かれた額が掲げられていました。
教育の中心は儒学でしたが、易学や兵学、医学も教えました。戦国時代には、足利学校の出身者が戦国大名に仕えるということがしばしばありました。来日した宣教師フランシスコ。ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、その頃の学生数は3000人と記録され最盛期を迎えていました。しかし、江戸時代に入ると、京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって、易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していくことになりました。
安土桃山時代に入ると、織田信長によってキリスト教の布教活動が容認され、 そのもとで、全国にキリシタン学校がつくられていきました。それは、 日本で最初の初等教育から高等教育までの体系だった教育制度でした。
キリシタン学校には、教会付属の初等学校、セミナリオ、コレジオなどがありました。子どもたちに読み。書き。算の基礎教育を施す全日制の初等学校が各地に開設され、西日本の諸教会に付属して約200校を数えるにいたりました。中等教育機関としてセミナリオが、肥前の有馬(現在の長崎県北。南有馬町)と近江の安土に設けられました。とくに有馬のセミナリオでは、 ヨーロッパから優秀な教授陣を招き、当時のルネサンス期の最先端の教育が行われました。
また、当時の日本にはなかった日曜日や夏休みがあり、遠足などを行い、現在の学校教育と同じようなシステムがありました。天正遣欧少年使節として日本ではじめてヨーロッパに旅立った4人の少年たちは、いずれも有馬のセミナリオの卒業生でした。
豊後府内(大分)に開設されたコレジオは、イエズス会が聖職者の養成と西洋文化を教えるため日本に設置した「大学」で、神学・哲学・ラテン語・日本語。日本文学。自然科学などが教えられました。これらキリシタン学校は、キリスト教の弾圧が始まって、 しだいに衰退を余儀なくされ、江戸初期に途絶えることになりました。
しかし、キリスト教思想やヨーロッパの学問を紹介し、また、活版印刷術を導入して、キリシタン版とよばれる辞書や伊曾保(イソップ)物語などの書物を刊行するなど、文化史上に大きな業績を残したのです。



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