近代以前の日本の学校

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645年以降、大化の改新において、律令に基づく国家の統治機構の整備が始められました。701年には、 日本史上最初の本格的律令法典である大宝律令が制定・施行され、 これにより日本の律令制が確立することとなりました。律令制とは、律と令を中心として、法治的に国家を支配しようとする統治形態のことです。したがって、その支配をスムーズに行うためには、律や令などに精通した官僚を必要としました。
大宝律令の中に「学令」という法律があり、そこで大学寮。国学という、官僚養成機関としての学校制度がはじめて定められました。
中央に設置されたのが大学寮であり、おもに貴族の子弟が入学しました。また、国学は、各国の国府に1校設けることが義務づけられ、郡司の子弟たちが入学しました。
しかし平安時代に入ると、 しだいに大学寮が衰退し、有力貴族によって設立された大学寮付属の寄宿舎兼学習室が発達し、独立の私立学校と理解されるようになりました。これが大学別曹です。律令制度の崩壊とともに国学も衰退し、11世紀に入る頃までにはほぼ消滅しました。
上記のような官僚養成の国家的な学校制度とは異なり、民衆向けの学校を創設したのが空海です。日本の真言宗の開祖である空海は、民衆教育を目的として、828年頃、京都に綜芸種智院を設けました。
綜芸とは、各種の学芸という意味で、大学寮や国学が儒教を学ぶことが中心であったのに対して、身分に関わりなくより広い立場で儒教・仏教・道教の講義がなされました。
前述したように、 ヨーロッパにおいて、中世の学校は宗教の強い影響下に置かれましたが、事情は日本でも同じでした。
鎌倉時代の中頃、北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(現、横浜市金沢区)の邸宅内に造った武家の文庫が、金沢文庫です。私設図書館的な役割を果たしたと考えられています。その蔵書量は約1万3000冊に上りました。金沢北条氏は、鎌倉幕府滅亡と運命をともにしましたが、以後、文庫は隣接する称名寺によって管理され今日にいたっています。
鎌倉時代末期頃、北条氏は南宋の五山十刹制度に倣って五山制度を導入し、鎌倉の禅寺に鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を選定しました。室町時代初期には、京都の禅寺のうち、南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺が京都五山として選定されました。これら五山の禅宗寺院では、漢文学がさかんに行われ、それらを五山文学と総称します。これらの寺院は、 この時期の学問の中心となっていました。また、五山僧は中国文化に通じていたので、幕府の外交文書を起草したり、外交顧問的役割も果たし、官僚の役割も担ったのです。
室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府とされた足利学校は、下野国足利荘五箇郷村(現栃木県足利市)にあり、北は奥羽、南は琉球にいたる全国から遍歴学生が来訪しました。建物には3つの門があり、その中央の門が「学校門」とよばれ、「学校」と書かれた額が掲げられていました。
教育の中心は儒学でしたが、易学や兵学、医学も教えました。戦国時代には、足利学校の出身者が戦国大名に仕えるということがしばしばありました。来日した宣教師フランシスコ。ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、その頃の学生数は3000人と記録され最盛期を迎えていました。しかし、江戸時代に入ると、京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって、易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していくことになりました。
安土桃山時代に入ると、織田信長によってキリスト教の布教活動が容認され、 そのもとで、全国にキリシタン学校がつくられていきました。それは、 日本で最初の初等教育から高等教育までの体系だった教育制度でした。
キリシタン学校には、教会付属の初等学校、セミナリオ、コレジオなどがありました。子どもたちに読み。書き。算の基礎教育を施す全日制の初等学校が各地に開設され、西日本の諸教会に付属して約200校を数えるにいたりました。中等教育機関としてセミナリオが、肥前の有馬(現在の長崎県北。南有馬町)と近江の安土に設けられました。とくに有馬のセミナリオでは、 ヨーロッパから優秀な教授陣を招き、当時のルネサンス期の最先端の教育が行われました。
また、当時の日本にはなかった日曜日や夏休みがあり、遠足などを行い、現在の学校教育と同じようなシステムがありました。天正遣欧少年使節として日本ではじめてヨーロッパに旅立った4人の少年たちは、いずれも有馬のセミナリオの卒業生でした。
豊後府内(大分)に開設されたコレジオは、イエズス会が聖職者の養成と西洋文化を教えるため日本に設置した「大学」で、神学・哲学・ラテン語・日本語。日本文学。自然科学などが教えられました。これらキリシタン学校は、キリスト教の弾圧が始まって、 しだいに衰退を余儀なくされ、江戸初期に途絶えることになりました。
しかし、キリスト教思想やヨーロッパの学問を紹介し、また、活版印刷術を導入して、キリシタン版とよばれる辞書や伊曾保(イソップ)物語などの書物を刊行するなど、文化史上に大きな業績を残したのです。



近代の学校制度

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「公教育」という用語は、「Public Education」の訳語で、本来的には、公共の教育、公開の教育という意味を含んでいます。

すなわち「公教育」とは、「公共の資金で維持され、すべての子どもに開放された教育組織」のことだといえます。そうした性格をもつ学校教育システムの必要性が生まれ、主張されるようになったのが近代であり、「近代公教育」と一般にいわれるのです。

しかし後にみるように、実際に、19世紀後半以降成立してきた近代公教育制度は、国家の主導権のもとでつくられ、すべての国民がむしろ義務として、国民として最低限必要な実用的学力、社会秩序への適応のための道徳教育を受ける公共の学校教育制度という性格を強くもったものとして成立してきます。

とりわけ、 日本の戦前の公教育制度はその傾向が強く、おまけに「公教育」という用語それ自体が、「公」の「教育」と理解されていました。その場合「公」とは「おおやけ、朝廷、国家、お上」などという意味をもち、 したがって「公教育」=国家の施す教育、お上の教育と理解される傾向が現在でも根強くあります。こうした「公教育」観を、「みんなでつくり、みんなに開かれた権利保障としての公共の学校教育」という本来的な「公教育」観に転換していく必要がある、といえるのではないでしょうか。

ところで、それではそのような「公教育」がなぜ近代になって、必要となってきたのでしょうか。

農耕革命が学校の登場を促したように、18世紀後半イギリスに始まった産業革命が、すべての子どもが学校に通う社会的な必要性と可能性を生み出しました。科学の発展に裏づけられた生産技術の変革と、それに伴う生産組織の変革によって、生産力の飛躍的な発展をもたらした産業革命は、人間形成の面でも非常に大きな影響を及ぼしました。

機械力の導入は、個々の労働を単位的要素に分解してしまい、以前の経験的熟達を要した手の労働のもっていた全体性や教育力を失わせることになりました。また安価な労働力としての女性や子どもの賃労働者化は、1日来の家族を崩壊・解体させ、基本的な生活習慣の形成すら困難になるという事態をもたらしました。工業化の進展は、地域共同体の解体をいっそう推し進め、共同体のもっていた人間形成力を失わせていくことになりました。産業革命が進行するとともに、1日来の民衆の人間形成の仕組みは弱体化し、道徳的額廃や犯罪の増加、結核の大流行や長時間労働による健康破壊など、さまざまな社会問題と教育の課題が発生しました。このような事態のもとで、すべての子どもを生活や労働の場から切り離して学校で教育することが必要になってきたのです。

一方、産業革命は、すべての子どもを学校で教育していくことを可能にする条件も生み出しました。産業革命は科学に裏づけられた生産技術の変革を基底としています。産業革命以降の産業社会において生きていくために必要な知識。技術は、それまでのカンやコツといった属身的知識・技術から科学的な知識・技術に転換していったのです。

科学とは、普遍性をもった合理的な体系であり、その理論どおりにやれば誰にでも検証可能な体系です。科学的な知識・技術は、経験することを通して「体得」することが必要な知識・技術とは異なって、実際に経験してみなくても理論を学ぶことによって身につけていくことのできる知識・技術です。生きていくために必要な知識・技術が、経験から分離して分かち伝えることができるようになったのです。すなわち文字で、学校で身につけることが可能な知識・技術なのです。そのことによって文化(知識・技術)をすべての人が共有し、すべての人が結びついていく可能性が生み出されたといえるのです。

さらに産業革命の進行によって生み出された巨大な生産力は、すべての子どもを一定期間、生産労働から解放して学校で教育を受けることと、そのための学校を社会的費用でつくることを可能にしました。

すべての子どもを学校で教育しようとする人間形成のシステムー近代公教育一の社会的必要性と可能性を準備したのは、産業革命の進行でした。しかし他方で13世紀末イタリアに始まリヨーロッパ各地に広がったルネサンス運動以降の近代人権思想の深化、発展の流れの中から、すべての人間が人権の主体として自由と平等の権利を有し、それらの権利を現実化するための教育を受ける権利を保障するために、公費による平等の学校教育が用意されなければならないという思想が生まれました。そのような思想の深化、発展が、権利保障としての近代公教育制度の成立を促していくことになったのです。

そうした思想を準備し、形づくっていったのは、前述したコメニウスやルソー、そしてJ.H.ペスタロッチ(1746-1827)などでした。

「大人」であることに価値をおき、子ども時代を大人への準備段階とみるそれまでの子ども観を転換し、子ども時代が人間の成長にとって独自的な価値をもつことを提起したルソーの思想は、必ずしも公教育論へと結びつくものではありませんでしたが、子どもが固有の人権と権利をもった存在であり、子どもの自由と自発性を尊重し、発達段階に即してその成長・発達を支え、保障することこそが教育の役割だとする考え方は、後の教育思想の展開に大きな影響を及ぼすことになりました。

スイスの民衆教育の父ともいわれるペスタロッチは、ルソーの影響を強く受け、産業革命の進行が生み出す民衆の悲惨な生活状態を前にして、社会改革と民衆の人間的救済を決意し、生涯を貧児、孤児の教育に捧げました。その教育実践に基づいた彼の主張は、人間の知・徳・体の諸能力の調和的発展の基本は、家庭および万人就学の小学校での基礎陶冶にあり、その方法は、直観。自発活動。作業と学習の結合に基づくとするものでした。

こうした人権と教育の思想の流れを受け継いだ権利保障としての近代公教育制度の原型のひとつを、フランス市民革命の中でコンドルセ(1743-94)によって構想された「公教育の一般的組織に関する報告および法案」にみることができます。

知的に啓蒙された国民によって、フランス革命がめざす個人が自由で平等に生きられる国家社会が実現できるという立場から、教育を受ける権利は他の人間的権利を現実のものにするもっとも基礎的な権利であって、そのことを保障するために、政府は公教育制度を設置する責務を負うとしたのです。公教育の教育内容は、親の教育権を侵害しないように、個人の内面的な価値形成に関わる宗教教育などを排除して知育に限定すること、一切の政治的権威から独立すること、教育機会を平等に保障するために男女共学、単線型、無償制にすること、 などを公教育制度の原則として提案しました。この制度構想は、革命政府の崩壊によって実現されませんでしたが、 ここに示された公教育制度の原理・原則は、その後継承。発展していくことになりました。

こうして産業革命や市民革命を経て成立してきた近代社会にふさわしい教育システムとして、19世紀後半以降、ナショナリズムの高揚を背景としながら、まずは欧米の国々に国家の手によって近代公教育制度が整備されました。しかし、実際に成立してきた近代公教育制度としての初等義務教育制度は、部分的には子どもの権利保障という側面を含んでいましたが、ナショナリズムの高揚と資本主義の展開過程と結びついて、従順で良質な労働力を大量に養成する教化機関としての性格を濃厚にもったものとして機能していくことになりました。

そこで教えられる教育内容は、読み書き算の3R's(Reading、Writing、Arithmetic)と労働力として必要な一定の科学的知識・技術に加えて、国家主義的な道徳でした。そこで採用された教育形態は、経済性・効率性を優先して、少数の教師で多数の子どもを教えることのできる一斉教授の方法でした(上図参照)。そこでは子どもの個性は無視され、教師中心の詰め込み的なものにならざるをえなかったのです。

こうした公教育のあり方を批判し、近代教育思想の系譜を引く立場から、一人ひとりの子どもの人格や個性を最大限伸長させる教育を創造しようという運動が、19世紀末から20世紀初頭(1920-30年代)にかけて世界的な規模で展開されていくことになりました。この新教育運動の中で、 さまざまな思想が生まれ、実践が試みられましたが、そこに共通にみられる特徴として、子どもの自由・自発性の尊重や興味。経験の重視、自然の中での教育、生活と教育の結合や労作教育(労働と教育の結合)、個別学習の重視などをあげることができます。この国際的な新教育運動は日本にも大きな影響を与えることになりました(→第3章2節、第7章3節)。なかでも、 アメリカ進歩主義教育の担い手だったJ.デューイの思想は、国際的な新教育運動にも、さらには戦後日本の教育改革にも影響を与えました。

大学もまた、近代国民国家が形成され、資本主義が発展し、近代科学が勃興するとともに、国家的機関としての性格を強め、官僚・科学者。法曹・教師・産業従事者などの養成にあたる一方、科学研究の中心をなすものに変化していくことになりました。

一方、中等教育の面では、2つのタイプの中等教育のうち、初等教育に続く第2段教育としての中等教育機関のカリキュラムの近代化が促進されることになりました。アメリカでは、南北戦争以後、公立のハイスクールが急速に普及し、19世紀末には伝統的な西欧型の初等。中等一貫の教養学校を凌駕し、1910年以後、同一の中等学校に普通課程と職業課程を含み込んで地域の生徒を無選別で入学させる総合制中等学校(comprehensive school)が設けられ、初等―中等―高等と接続する単線型学校体系が成立したのです。

他方、英、独、仏の場合は伝統的教養学校が初等・中等一貫体制を保持し続けたため、大学に接続する教養学校と、初等学校からの進学者を受け入れた大学に接続しない実学系学校との複線型学校体系が形づくられました。

しかし、 これらヨーロッパ諸国でも20世紀に入って統一学校運動が起こり、 しだいに初等教育が共通基礎教育として編成されるようになり、第2次世界大戦後はほとんどの先進国において前期中等教育までの義務化が実現しました。また伝統的中等教育と他の系統との間に、制度上の差別を残していた国でも、その後、中等教育制度の機会均等が課題とされるようになり、総合制中等学校が制度化されるようになりました。



日本の近代化と学校教育

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商品経済の進展や、それに伴う幕府や藩の財政的危機の深刻化、さらには欧米列強諸国による外圧などを背景にして、18世紀末以降、さまざまな教育機関が普及、発展、整備され始めました。幕府では、それまで林家に一任していた湯島聖堂の教育を改革し、幕政の立て直しをめざした人材養成機関として位置づけ直しました。

幕府の公的な学校として1797(寛政9)年「昌平坂学問所」と改称して、幕臣の就学すべき学校として再編したのです。

各藩でも、藩政改革を進めるための人材を養成する目的で、多くの藩で藩校が開設され、19世紀に入って教育方法の合理化も進み、学習の進度に応ずる教育課程の編成や等級によるクラス分け、試験による進級の仕組みもしだいに整備されていきました。教育内容面でも、儒学(朱子学)を中心とすることに変わりはありませんでしたが、国学や洋学を導入する藩校が幕末に近づくにしたがって増加し、実学的な傾向を強めていきました。また、幕末から維新期に入ると、藩校を一般民衆にも開放するところが多くなり、人材を家臣だけでなく、広く民衆にも求めるようになり始めました。

一方、民衆自らも、商品経済の発展の中で、自分たちの生活や生産を向上させていくために、読み、書き、算の基礎学力を子どもたちに身につけさせる必要性を自覚化し始め、自分たちの手で、寺子屋を開設していきました。とりわけ18世紀後半以降、幕末維新期にかけて、その数は急増しています。寺子屋における教育は、近代学校が一斉教授の教育法であったのに対して、個別指導でした。その教材(手習い本)として地域や職業に即して全国で数千種にも上る「往来物」がつくられました。幕末維新期に存在した寺子屋数は4万とも5万とも推測され、国家による近代公教育が始まる前の民衆の識字率の高さは、他の国に類をみないほどのものでした。こうした民衆の教育への熱意が、明治に入って始まる小学校を創設する力になっていくのです。

私塾もまたこの時期に急増しました。藩校がややもすれば官許の学問の枠を超えられないのに対して、 自由な私塾が、藩校に先んじて、新しい時代状況に対応しうる新しい学問を提供する場となった

のです。さらには多くの私塾が民衆にも開かれていて、向上し始めていた民衆の学習意欲に応える場ともなったのです。幕末期の有名な私塾として、漢学塾としては広瀬淡窓の成宜園、吉田松陰の松下村塾、洋学塾としては緒方洪庵の適塾福沢諭吉の慶應義塾などをあげることができます。これらの有名な私塾には遠方からも門人が集まり、またいくつもの私塾を渡り歩き遊学する門人も多く、私塾は幕末期の混乱する情勢の情報交換の場ともなりました。

以上のような幕末維新期のさまざまな教育機関の普及。発展を基礎として、 日本の近代公教育制度は発足していくことになります。

日本の近代公教育制度は、1872(明治5)年公布の学制によって発足しました。学制は、フランスの制度に倣って学区制を採用しました。全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に区分し、 それぞれの学区に大学校、中学校、小学校を各1校設立すると規定したのです。したがって、全国に8大学校、256中学校、5万3760小学校を創設しようとする壮大な計画でした。当時の人口は3000万人強でしたから、人口600人に1小学校を設置しようとしたのです。実際につくられたのは、計画の約半分の2万5000校あまりの小学校でしたが、 この数は現在の小学校数を上回るものであり、そこには当時の地域の民衆の教育にかける熱意をみることができます。

学制公布の前日に布告された学制序文(学事奨励に関する被仰出書)は、民衆に向けて、学校で学ぶことの必要性、重要性を説くことを目的に出された文書で、近代公教育制度発足当初の政府の教育理念

がよく示されています。旧来の封建的な教育、学問観を批判・否定し、 これからの教育は、四民平等で、個人の立身出世、殖産興業を目的として行われなければならないとしたのです。そこには、欧米

列強諸国をモデルに、国民教育を普及させ、広く人材を抽出、養成することによって産業革命を推し進め、殖産興業・富国強兵の近代国家の建設を急ごうとした当時の政府の意図があったといえます。

教育を通して欧米文明を摂取し、個人の力量、国民の力量が高まれば、必然的に国家の力量も高まる―「一身独立して一国独立する」(福沢諭吉『学問のすゝめ』全17編、1872-76)一という考え方に立っていたのです。

このような日本における近代公教育制度のつくられ方は、前章でみた欧米諸国での近代公教育制度の成立のあり方と異なっています。

欧米諸国では、産業革命が進行し、共同体の人間形成システムが崩れ、社会的な必要性からそれに代わるものとして近代公教育制度が成立していきました。それに対して、日本の場合には、産業革命以

前の段階で、国家の主導のもとに産業革命を推じ進める人材を選別し、養成するために近代公教育制度を創設したのです。ごく普通の民衆は、基本的には共同体の人間形成システムの中で「一人前」の人間として形成されていたのであり、当時の民衆には寺子屋的なもので十分だったのです。

すなわち日本の近代公教育制度は、国家的必要性から国家の学校として村社会にもち込まれるという形で成立したといえます。したがって、発足してしばらくの間は、「国民」として教育しようとする国家の学校教育システムと村社会の人間形成システムとの間にしばしば衝突がおこることになりました。就学率は30%程度にすぎず、あいつぐ新政反対一揆の中で、学校が、警察や役場と並んで打ち壊しの対象となる事態もおこりました。

他方、欧米の近代人権思想、啓蒙思想の流入は、青年世代をおもな担い手とした自由民権運動の高揚をもたらすことになりました。

自由民権運動は、国会開設、地租改正、不平等条約の是正などを求める政治運動であったとともに、 自らを、そして子どもを、次代の地域を担う、そして国家を担う政治主体、権利主体として形成していこうとする教育・学習運動としての側面を強くもった運動でもありました。その運動の中で青年層の旺盛な学習意欲に支えられて多種多様な「私」立の中学校が生み出されました。それは、「公」教育を、「お上」「国家」の教育ととらえるのではなく、国家の干渉を排した「私」の共同化としての「共立」の教育として創設していく可能性をもった運動でもあったのです。

民衆の反発と他方での自由民権運動の高揚という事態を前にして、政府内部に路線の対立が生まれてくることになりました。学制以来の欧米文明の摂取を主要課題とした教育政策を知育偏重と批判し、徳育重視への転換を主張する考えと、学制以来の教育政策の継続を主張する考えの対立でした。

前者の考えは、1879(明治12)年夏に元田永学の起草になる教学聖旨を政府指導層に内示するという形で示されました。しかし同年、田中不二麻呂文部大輔を中心として作成。公布された教育令は、後者の立場に立つもので、 アメリカの教育行政を参考にして、学制の中央集権的な画一的。強権的な実施方法を改め、地域に教育実施の権限を大幅に委ね、民衆の生活現実に立脚して公教育の普及を図ろうとしたのです。このような教育令の性格は、自由民権運動の中で強く主張された教育の自治。自由の要求に沿うもので、自由民権運動のいっそうの高揚を促すことになりました。

反政府的色彩を強めていった自由民権運動の高揚に危機感を抱いた政府は、学制以来の知育を重視した開明的な教育政策の転換を図り始めます。啓蒙的・民権的な書籍を教科書として使用することを禁止する措置や民権派教師の締出しを狙った教員統制策が開始され、1880年暮れに教育令が全面改正されました。この第2次教育令は、先の教学聖旨の主張を大幅に取り入れ、修身科が筆頭科目に据えられて、儒教を中核とした徳育重視の教育へと転換が図られることになったのです。

また中学校への規制も開始され、1881年に中学校教則大綱、84年に中学校通則が制定され、「忠孝昇倫ノ道ヲ本トシ」た教育(忠孝をはじめとした道徳を基本に据えた教育)を行うことが求められるようになりました。設置基準が高められ、私立や連合町村立の中学校が淘汰されていきました。こうして、公教育を「私」の共同化としての「共立」の教育として創設していく可能性は失われていくことになったのです。

1885年、内閣制度が発足し、その初代文部大臣となった森有礼のもとで、来るべき立憲体制の成立に向けて教育制度の一連の改革が行われ、86年にいわゆる諸学校令(帝国大学令、中学校令、小学校令、師範学校令)が制定されました。

この制度改革によってつくられた学校体系は、戦前の学校制度の基本体系となりました。帝国大学令第1条で帝国大学の目的を「国家ノ須要二応ズル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ孜究スルヲ以テロ的トス」と規定したように国家的色彩の強いものでした。 しかし他方で啓蒙主義者でもあった森は、第2次教育令以降の修身科を中核とした儒教主義的な徳育重視の教育を批判し、欧米市民国家の国民性をモデルとして、強い自我をもった、 自発的。意欲的に国家を支えようとする国民の形成を行う教育制度の構築をめざしました。しかし89年の森の暗殺によって、その試みは頓挫することになりました。

このように、学制発布によってスタートを切った日本の公教育の教育理念は、個人の自立を図ることによって国家の独立・富強を達成するのか、国家に従属する個人を形成するのかをめぐって揺れ動いたのですが、その動揺に終止符を打ったのが、1890(明治23)年に発布された教育ニ関スル勅語(略して教育勅語)と小学校令の改正(第2次小学校令)でした。

井上毅と元田永学によって起草された教育勅語は、全文315字の短いものでしたが、以後、戦前日本の教育の根本理念となりました。そこには教育を通して形成すべき「臣民」像が示され、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」する人間、すなわち天皇。国家にすべてを捧げる人間となることが求められたのです。

勅語発布に先立って公布された第2次小学校令の第1条で、小学校教育の目的が「道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活二必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クル」ことと規定され、1941(昭和16)年の国民

学校令で改正されるまで、 この規定が戦前の小学校教育の目的となりました。ここにいう「国民教育」とは、一国の特性に関する教育のこととされ、「道徳教育」と並んでその内実が教育勅語で明示されたのです。1891年の小学校教則大綱では、教育上もっとも注意を払うべきこととして、「徳性ノ涵養」をあげ、全教科目で「道徳教育」「国民教育」に留意して教える必要性が指摘されました。教育勅語の精神を教えることは、修身科のみならず、すべての教科目の目的とされたのです。

教育勅語の絶対不可侵性を国民に印象づける出来事が、勅語発布の翌年におこります。いわゆる内村鑑三不敬事件です。第一高等中学校(のちの第一高等学校)の嘱託教員であった内村鑑三が、勅語

奉読式に際して、キリスト者としての良心から天皇の寝署(天皇直筆の署名)のある勅語に「奉拝」(深々とした拝礼)しなかったことが問題化し、内村は自ら職を辞しました。

1890年代に入って日本の産業革命がしだいに進行し始めると、資本主義の発展と軍備拡張を進める政府にとって、小学校に続く教育の整備・拡充が重要な課題となってきました。94(明治27)年、井上毅文相は、高等学校令を制定し、従来中学校令で規定されていた高等中学校を、高等学校として分離しました。また、初等レベルの簡易な実業教育の制度化に着手し、実業教育の振興に力を注ぎ始めました。そして99年に中学校令が改正され、高等女学校令、実業学校令が制定され、中等教育の三種別化が確定し、初等教育の延長としての高等小学校を含めて、義務であった尋常小学校を終えて以降の学校体系は複線化し、いわゆるフォーク型学校体系が完成していくことになりました。

1903(明治36)年、教科書は国定化され、唯一絶対の教材となりました。教師は、教科書に書かれていることを、 もらさず子どもたちに教え込むことを通して、子どもたちを「臣民」にしていく義務を天皇。国家に対して負うことになったのです。子どもたちもまた、教科書に書かれていることを覚え込むことによって、「臣民」となる義務を天皇。国家に対して負うことになったのです。

学問と「教育」は分離され、男子のみに開かれた中学校、高等学校、帝国大学においてのみ、「国家ノ須要二応ズル」という枠ははめられていたものの、一定の学問の自由が容認され、それ以外の「教育」機関は学問の自由のない教化的色彩の濃厚なものとして整備・完成されていきました。こうして戦前日本の公教育は、「お上」「国家」の教育となり、そこでは「私」は抑圧され、「滅私奉公」が求められ、教育を受けるということが、兵役、納税と並んで国民の国家に対する義務となったのです。

日清。日露戦争を経て日本の植民地となった台湾、朝鮮にも、それぞれ台湾公学校令(1898年、のち1919年台湾教育令)、朝鮮教育令(1911年)が公布されました。教育勅語の精神に則った教育を行うとされ、母国語を奪い、 日本語の教育を強制しました。そして台湾や朝鮮の人びとを「皇民化」していく政策が展開されていくことになりました。



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